その人がその人を100%発揮する世界

小さいころから、”その人がその人を思う存分発揮して存在している、そして、みんながそうであることで、それがいちばんうまく機能しているという世界”という感覚にものすごく惹かれます。ただ、そういう世界がすきなのです。


それは、ただ、そういう世界があることを知っているから、そういう世界にいたから。と思います。すきなものはすき。私の本質もそれ。


お互いの違いを認めあえるから、問題ない。

相手のすきも、自分のすきも認めて、思う存分表現し存在する。

みんなが、それぞれのしあわせを求めて、それがすべて与えられている。

それぞれの求める幸せは、それぞれみんな違うから、ぶつかり合うことなどもないし、無くなることもない。その人の得たいものはすべて与えられる。



今の私の現実は、まだ完全にそうでなかったりすることもありますが、

それは、私自身が私にそうであることを否定しているから。

小さいころの記憶、自分を100%発揮すると人を傷つけたりする(←つまり、自分が傷つく)と記憶した誤解に縛られていたから。つまり、そのころは方法を知らずにいたから。

でも、今は、もう、知っている。だから後は、自分が自分であることを許可すればいいだけ。




今までは、じぶんをごまかしていれば、

本当の自分でないことを自分が我慢すれば、

どこかにひずみが来るけれど、なんとかやり過ごせたような気もしますが・・・。つまり、のらりくらりと、自分自身を100%は表現しないでいることを選択してきましたが、

とうとう、もう、抜き足ならぬところまで来ました。



それに、自分なりに、どうやったら、自分を100%表現してみんなも幸せな世界にいられるのか?という方法をもう十分検討してきたから・・・知りえたこと、知っていることを行動に移すときというシグナルが目の前に現れています。


今、私が、私を表現しなかったら、もう、いつするんだと。



自分が自分を100%表現することを恐れない。(←やっぱり、今までのやり方じゃないから、コワい~。コワい~けれど、もし、そうなったら、ちょっとおもしろいと思える自分もいる。少しずつやってみよう。はじめっから100%じゃなくってもいいよ。今まで100%じゃないんだから、もし、それが30%だったら少し増やす。35%でも、40%でも、50%でも、少しずつでもいいじゃない。)


100%表現することは、相手を非難することじゃない、相手を傷つけることでもない。

もしそうだとしたら、それは、何かやり方を間違えている、何かやり方を知らないだけ。

だったら、視点を変えて、そのやり方を変えるだけ。


自分の純度を上げて、自分を表現しようとする。


自分の純度を上げて、自分を表現する。


さて、これには終わりがない。100%出そうと思っていると、そのうちに、いつもちょっとのその上をいく。だから、それは終わりがない。永遠の、無限の成長の一部、そのときのできる限りの100%をつくそうとする。だから、その時のできる限りで大丈夫。


みんながみんな、個性を思う存分発揮して、キラキラ輝いている世界は、

きっと、もっと、美しい。


いまでも十分美しいけれどね。



(言葉で伝わらないかもしれない。私の意図とは、違うように受け取られるかもしれない。

みんな、脳の使い方が違うからね。)











Meine Kleinen Schaetze

私の すきなもの 色々 Ich glaube ,dass wenn man sie nur zu finden glalubt , dann kann man in einer Welt voller schoener , freundiger und gute Dinge leben.

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