なんでもない時間

子どものころ、何かを作ったり、本を読んだり、絵をかいたりする、なんでもない時間が好きでした。


いま、思うと、幼稚園の頃の記憶が、私の中で本質的に一番豊かかなと思います。


大きな木のある園庭を感じながら、

窓の大きな風通しの良い園舎の中で、

絵を描く、制作に没頭する、パズルで模様を作って遊ぶ。


・・・あのパズルは、外国製だったのだろうか?今は、見かけないだけだろうか?赤と黄色と青の三角形などのパーツを正方形の枠の中に並べる。その時にできる模様が、並べ方によって何種類もできて、綺麗で、楽しかったのを覚えています。また、遊びたいなと思う。なんで、捨てちゃったのかなぁ・・・。

とにかく、あの頃は、人の目を気にしないで、自分につながっている時間が多かったようです。


あのときなりに心配なことも多々あったと思うけれど、

それでも、あの時間のことだけを思うと、贅沢だったなと思う。


少しずつ成長するにつれて、学校に行ったり、やること、やらなくてはいけないことが増えていく中で、

「今は、やらなくてはいけないことがたくさんあるけれど、

大人になったら、きっと、こういう何か好きなものを作ったり、好きな本を読んだり、好きな絵を描いている時間をたくさん持てるのだろうな。だから、今は、やるべきと言われていることをやろう。」と思うようになっていました。




そのあと、長年、色々な、やるべきと言われていたことを一生懸命やってきて思うのは、


他のこともできるけれど、出来ないこともないけれど、


やっぱり、あの時間が好きだということ。



あの頃から、私の好きなものは、今も変わらない。


きっと、このまま年を経ても、同じだろうなということ。


そして、


大人になったら、自然とやるべきことを終えて、なんでもないあの頃の時間を過ごせるようになるのではないと気が付いたのだから。


いまの、私に大切なことは、


私のやりたいことが、私のやるべきことと捉えて、

ごまかさないで、

そういう選択を自分でしていくこと



他のみんなよりも、やりたいことが地味かもしれないと、

周りのみんなと同じようになりたいなと思った時期もあるけれど、

そんなころから何十年経っても、私が好きなものは相変わらず好きなのだから、


もう、それでいいじゃないということ。


私は、みんなにとって、なんでもない時間がとてつもなく好きです。


いままで、なんでもない時間って思っていたのは、きっと、私の言葉ではないのだろうな。

”そんな何でもない時間!”って、言われていたんだろうな。今から思うと。そして、そのうちに、それを自分の言葉として受け入れてしまっていたんだな。



なんでもない時間として、私に取り扱われていたあの時間は、実は、本当に贅沢な時間だったよ。


なんと!また、あらたな気づき。


これは、誤解がとけた瞬間!


これで、また一歩、自分に戻れる。






Meine Kleinen Schaetze

私の すきなもの 色々 Ich glaube ,dass wenn man sie nur zu finden glalubt , dann kann man in einer Welt voller schoener , freundiger und gute Dinge leben.

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